プロ野球の名監督の一人星野仙一

人名

「星野仙一さんの経歴を知りたい」
「星野監督の実績が気になる」
「中日ドラゴンズのファンを長年やっている」

星野仙一監督は1947年1月に岡山県で生まれ、1968年にドラフト1位で中日ドラゴンズに入団をします。
現役時の特徴としては、当時の球速では剛腕といわれる145キロの速球と、右打者に対して向かっていくような軌道の変化球シュートを武器に頭角を現します。
この星野仙一さんといえば、監督時代に闘将といわれ感情を表に出して戦う姿勢です。

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星野敦/INFLUX 代表取締役社長

星野仙一さんの現役時代の考え方

この姿勢は現役時代から続けてきたことであり、武器の変化球のシュートはコースを間違えると右打者にデットボールを当ててしまうデメリットがあります。
仮に当たらなくても、相手からすれば危険すれすれのボールを投げる相手なので怒りに震えて投手に詰め寄ることもあったのです。
多くの投手は危険球すれすれのボールを投げてしまったときには帽子をとって謝るか、相手が詰め寄ってきたときには味方が来るまで逃げることもあります。
そんな中で星野仙一さんは、プロ野球で生きていくなら当然のプレーと考えていたこともあり相手が激怒したとは逆に相手に対してつかみ返しに行くという感じで戦う気迫を前面に押し出していたのです。

1983年に現役を引退、その後ドラゴンズの監督に就任

現役当時は闘う姿勢を全面に押し出すことでエースとして活躍していましたが、当時は連投が当たり前の時代だったことそしてひじに負担がかかるシュートを多用したため1983年に現役を引退します。
現役を引退して2年間の心身を休める休養期間を経た後に、中日ドラゴンズの監督のオファーを受けたので了承します。
この時に、目標として打倒巨人軍そして日本一にするという宣言の元でチームが星野ドラゴンズが始動したのです。
なぜ打倒巨人軍を目標にしたのか、実は闘将と言われていますが高校や大学生の時には感情を前面に押し出す人物ではなかったことがのちに語られています。
打倒巨人軍と声高に言いそして闘将になった理由は、中日ドラゴンズに1位指名を受ける前日談にあるのです。

あこがれの巨人軍に入れる希望を砕かれる

大学野球で活躍をしていたこともあり、その能力を見込まれて巨人軍からはずれ1位とはいえ指名することを伝えられます。
あこがれだった巨人軍から外れとはいえ1位指名を受ける、これを聞いたことで大変喜び友人や親族にも自慢したのです。
しかしドラフト当日に、外れ1位に指名されたのは自身ではなく別の選手を指名します。
あこがれの巨人軍に入れる希望を砕かれ、この時に中日ドラゴンズで特に巨人が相手の時には真っ向勝負を挑んだことが闘将の基礎を作ったのです。

星野監督が引退してからの中日ドラゴンズ

ただプロ野球の監督になった星野仙一ですが、その道のりは決して順風満帆とは言えない船出になります。
星野監督が引退してからの中日ドラゴンズは、活躍していた選手の多くが引退間近の年齢になっていたこともあり衰退期に入っていたのです。
そのため順位も優勝からは程遠い3位から5位を行き来しており、その低迷のトンネルを抜けるには時間がかかると多くの解説者がコメントをします。

星野仙一が名監督といわれる所以

星野仙一が名監督といわれる所以は、どんなチーム状況であっても決してあきらめずにチームを強くするために懸命に奔走したことです。
チームを強くするためには、現役当時から最低でも3年後を見越した凶器プランで臨むことを考えます。
そのためにはチームが強くなる環境を整える必要があり、これまで予算の関係上で手をかけてこなかった2軍の練習設備や球場を運営側と交渉することで改革をすることから始めます。
そして監督になって間もない時にはベテランを使いつつ、数試合をやって疲労がたまってきたらすぐに1軍のベンチもしくは2軍にいる有望と思われる若手を積極的に起用して実力を伸ばしたのです。
その結果として監督就任して間もない時には順位の変動はなかったのですが、1990年代には上位に入るチームへと変貌を遂げます。
そして若手育成が順調に進み、1990年代後半に若手から育成した面々が最盛期を迎え宿敵巨人軍を倒しセリーグ優勝を勝ち取ることに成功したのです。

当時のダイエーホークスも若手育成の成功し優勝を勝ち取る

ただセリーグ優勝は果たせましたが、その裏で中日ドラゴンズと同様に底辺にいた当時のダイエーホークスも若手育成の成功し優勝を勝ち取ります。
そしてダイエーホークスとの日本一をかけた戦いは、拮抗はしましたが勝負の女神は星野仙一には微笑むことはなく敗退してしまったのです。
その後は健康問題や妻や肉親との死別など心身の負担が重なることで、一度は闘将は監督のユニフォームを脱ぐ決意をします。
しかし野球への未練と妻や肉親との約束が、精神の支えとなり再び阪神タイガースの監督として復帰したのです。
当時の阪神タイガースも下位をさまよう最弱チームであり、中日ドラゴンズを再生したようにチーム強化プランを構築します。
そして投打の育成に成功したタイガースは、下位からの脱却に成功するだけでなく見事にセリーグ優勝を勝ち取ったのです。

まとめ

その後もタイガースの監督は勇退し、日本代表の監督としてオリンピックも戦います。
そして日本一の監督となったのは楽天の時であり、多くの人に感動を与えます。
ただ体を蝕んだ病気によって息を引き取り、名球会の名監督として語り継がれることになったのです。

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